五輪の内定を手にした池江璃花子

「東京五輪も福岡での世界水泳選手権でも個人種目で派遣標準記録を突破できていなかったので、とにかく今はホッとしていますし、とにかくうれしいです」

 3月に行われた競泳のパリ五輪への出場権をかけた一発勝負の舞台、国際大会代表選手選考会での100mバタフライの決勝を戦い終え、五輪の内定を手にした池江璃花子(横浜ゴム/ルネサンス)の表情と声のトーンからは、まさに安堵、という言葉がピッタリだった。

 2021年の東京五輪のときは、池江自身も出場は“奇跡”で良いと思っていた。思わぬ挑戦権を獲得し、白血病という病と戦う世界から、アスリートとして勝負の世界に帰ってこられたことを実感するだけで幸せだった。

 プールに戻れたことが幸せで、泳げることが楽しい。前向きな気持ちで取り組むトレーニングに加え、池江が持つ水泳センスから日本国内でトップ争いをするまでに時間はかからなかった。

 しかし、世界が遠い。

 2018年のパンパシフィック水泳選手権では世界のトップスプリンターであるオーストラリアのエマ・マキーオンらを抑え、56秒08の日本新記録で優勝。この記録はいまだ世界の歴代トップ10に入る記録である。その記録に、いくら泳いでも、いくら練習しても届かないのである。

 次第にいらだちが隠せなくなっていく。レース後の表情からは笑顔が消え、「まだまだです」「もっと(タイムが)出せるはず」「こんなんじゃ世界と戦えない」と、自分に厳し過ぎるほどのコメントが多くなっていった。

 元々、自分に対しては厳しい目を持つ池江ではあったが、東京五輪後の2年は、どこか追い詰め過ぎている様子であった。

 トレーニングは確かにこなせている。にも関わらず、記録が出せない。陸上トレーニングをどんなに頑張っても、筋力が戻らない。特に背中と下半身は、いつまでも細いまま。やっていないわけではないにも関わらず、だ。

 池江が主戦場とする自由形とバタフライの短距離は、背中と下半身の筋力は欠かせない。2023年の池江を見ても、もちろん2021年時よりは身体つきもしっかりしていたが、まだ世界と戦うには物足りない。

 風向きが変わったのは、拠点をオーストラリアに移してからだった。昨年の世界水泳選手権後、白血病を患う前にもトレーニングを行っていたオーストラリアのゴールドコーストを拠点とするトップチームに参加。指導するマイケル・ボールコーチは、池江のライバルでもあるマキーオンを始め、背泳ぎ世界記録保持者のケーリー・マキオンらを指導する名将だ。そこで指導を受けるうちに、徐々に池江本来のアスリートとしての姿を取り戻していく。

 きっと、国内にいるとどうしても出てしまうであろう甘えもなくなったことも大きいはず。いつも病気と隣り合わせで、誰かの手を借りてきた池江が、サポートはあるにせよ、自分の手で生活し、トレーニングに励む日々は、選手としての感覚を研ぎ澄ませるのに良い時間になったのだろう。

 それは、オーストラリアから帰国し、国際大会代表選手選考会の会場に姿を現したときに十分に感じられた。充実した表情、リラックスした雰囲気。すべてを自分のコントロール下に置けているから持てる自信。そして、なかなかつけることができなかった背中と下半身も、1年前に比べるとひと回り大きくなって帰ってきた。それはこの言葉から見て取れる。

「復帰後ベスト、と言ってきましたけど、オーストラリアに行ってからは、目標は自己ベストの56秒0なんだ、という気持ちに変わった。復帰後ベストはもちろんうれしいですけど、本当の自己ベストを意識したい」

 結果的には高校生の新星、平井瑞希(ATSC.YW/日大藤沢高校)に敗れたものの、100mバタフライで五輪2大会ぶりの個人種目での出場権利獲得を果たすことができた。

 世界と勝負ができる舞台に立てる、という実感ができたからこそ、少しの焦りも出てきた。大会最終日に行われた女子50m自由形では、1位を獲得するも派遣標準記録を突破できず。「こんなに頑張ってきたのに、結果が出ないのが悔しい」と、100mバタフライの時とは一転して涙が止まらなかった。それも、『勝負の舞台に立っている』から言える言葉であり、感じられる悔しさだった。

「この数カ月でここまで成長できたのだから、パリまでの数カ月間ももっと努力できるし、もっと強くなることができるはず」

 オーストラリアで取り組むトレーニングの方向性は池江が目指すものと一致しているし、身体つきの変化からも池江にマッチしていることは証明された。

 目標に掲げる自己ベストである56秒08まで力を取り戻すには、前半、後半ともに0秒5前後の上乗せが必要だ。前半のスタートから浮き上がり、後半のラスト15mの失速。この修正しなければならない2カ所は、池江本人もよく分かっているし、名将ボールが見逃すはずはない。

 とはいえ、現実的にパリ五輪でのメダルは厳しいだろう。だが、五輪決勝の舞台で“競う”ことで、きっとその先の池江の成長を加速させてくれるはず。

 池江は、言った。「自分に負けずに頑張りたい」。その言葉通り、全力でやり抜いた池江のパリ五輪を見届けるのが楽しみだ。(文・田坂友暁)